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第二奇兵隊VS新撰組 両者戦闘が記述された古書籍発掘
永倉新八の新撰組顛末記(T2)や林半七の維新戦役実歴談(T6)により両者交戦したと推察し
第二奇兵隊側視点での調査や情報発信を令和5年頃から続けてきた。
ようやく両隊名と戦況が記述され直接対決が確認できる史料を発掘した。
それは帝国陸軍の京都連隊區将校団が昭和3年に発行した「郷土戦史」である。
全209頁の中に南北朝や比叡山焼討など京都周辺の戦いが纏められ、
鳥羽伏見の戦いも67頁にわたり記述、小項目として「幕府新撰組の活動」が・・・
以下「郷土戦史」の目次に沿って解説していく。 ※難字難文は現代語に要約 ( )は筆者補足
「郷土戦史」表紙・目次・奥付(昭和3年11月京都連隊區将校団発行)
①伏見方面 戦闘開始前の状況
長州藩は慶応3年12月10日に京都に至る。12月11日に続々と入洛する。
林友幸(林半七:第二奇兵隊長)125名は伏見巡邏隊として泉経寺・元忠寺に駐屯する。
12月の大晦日、幕府は薩討表調整のため重臣を集め会議し、軍勢の概要を策立する。
近藤勇と新撰組150名は伏見占領隊に属している。
②慶応4年1月3日 伏見方面の戦況
薩摩藩の伏見守備隊800名は御香宮に配置される。
林友幸(林半七)は薩摩藩と連携し、新町・銀座・京町の街衝を警戒する。
鳥羽方面から砲撃音が轟き、開戦となる。
③幕府新撰組の活動
副長土方歳三が指揮し京町二丁目付近に進出、薩摩藩兵と衝突し白兵戦に突入。
小銃の一斉射撃を浴びるも屈せず奮闘する。
長州藩林友幸(林半七)は部下を指揮し、大手筋付近で両隊の小銃戦と白兵戦が交々に起きる。
④会津藩白井大砲隊の行動
最初は御香宮付近に進出し長州藩林隊と戦闘せしも、敵銃火により前進できず。
止むなく左翼に連絡し風呂屋筋と土橋に進出するも、土佐藩守備し通過拒まれる。
更に堀川を渡り北進、堺町の薩摩藩倉屋敷を焼く。付近を捜索した後に退却する。
会津藩一部と新撰組一部は夜に入るも奉行所付近で戦闘せしも、夜半には後退。
⑤1月5日 千両松付近戦闘
長州藩振武隊石川正臣(厚狭介)が薩摩藩と共に宇治川堤を前進する。
会津藩佐川隊は堤防下の藪葦に潜伏し側面より一斉射撃(攻撃) 石川隊長戦死。
山田顕義総督は第二次偵察を命ずる。指揮官は三浦梧楼(奇兵隊隊長)
長州藩第二奇兵隊と松江藩(因州藩)兵砲2門が急行する。
東軍(幕府側軍)は後退する。会津藩は淀城門に向かうも入城を抗まれる。
敵の一部が宇治川と木津川を渡河するとの報告を聞き、八幡(橋本)に退却する。
⑥1月6日 橋本(八幡)戦闘
(橋が落とされており)右側は淀藩兵と薩長軍主力が、左側は薩長土藩の連合が渡河する。
会津兵が橋本北端で頑強に抵抗するが、対岸の津藤堂藩が砲4門で砲撃。
東軍(幕府側軍)は支えきれず後退。追撃隊は樟葉から枚方へ向かう。
※第二奇兵隊VS新撰組 ←筆者による検証
①伏見奉行所の戦い
この伏見奉行所の戦いには長州藩から第二奇兵隊125名が参加。
本書には「新撰組と第二奇兵隊の間で小銃戦と白兵戦が交互に起きた」と明記。
永倉新八の新撰組顛末記「薩軍の陣を目掛けて突貫、薩摩隼人は退却する、
長州兵が大砲を向ける、長兵が火をかける」との記載内容が符号する。
②淀千両松の戦い
本書地図に「第二奇兵隊 前方銃砲撃を聞き急行す」と明記。
維新戦役実歴団(T4)で林半七は「幕兵と薩兵が戦っているので横の方から
撃ち幕兵が崩れた」と記述。
本書地図にも維新戦役実歴団にも「新撰組」名前ないが、この地で井上源三郎を始め
多くの新撰組隊士が倒れた。明治40年には戊辰之役東軍戦死者之碑が建立されており、
第二奇兵隊と幕兵(新撰組)との交戦あったと認識できる。
③橋本・石清水八幡宮の戦い
橋本宿付近の戦況は本書に記載されているが、石清水八幡宮は記載なし。
石清水八幡宮ある男山に第二奇兵隊が登り、新撰組の永倉新八と斉藤一も登った
ことは、それぞれが語っている。
永倉新八は新撰組顛末記に「前後の連絡を絶たれ戦いながら走って大阪へ」
浪士文久報告記事で「敵に前後を取り巻かれ必死の戦い」と語っており、
この前部分(山頂の神社部分)が第二奇兵隊と想定される。












