海商館からのお知らせ

2026-03-30 22:21:00

向山紅葉隊活動報告(番外)小発見のマトメ

令和4年から向山紅葉隊を名乗り、ウォーキング・清掃活動・勉強会・サミット

などを開催してきた その中で新しく得られた知見や史料について、時点時点で

SNSにアップしてきたつもりである

3年間を振り返って「歴史上初の小発見」と思われる案件を纏めて再掲載

 

①第二奇兵隊軍医:石津文齋の写真と名入の半鐘

  石津文齋写真.JPG 塩田の石津医院.jpg 石津文齋名入半鐘.jpg 

  石津文齋の曾孫、石津宏さん所有 ※旧石津医院は石城山麓の塩田村にあった

 

②四境戦争大島口の戦いに参戦した上関義勇隊士の腕章

  上関義勇隊の腕章.JPG 子孫の方(秋元さん)所有

 

③四境戦争大島口で使用されたミニエー銃と銃弾

  ミニエー銃とゲベール銃の説明.JPG ミニエー銃とゲベール銃.JPG

  阿月克己堂学務:秋良敦之介、子孫の秋良克温さん所有

  

④鳥羽伏見の戦い直前、京都祇園における第二奇兵隊士の記念写真

  第二奇兵隊京都写真表面.JPG 第二奇兵隊京都写真裏面.JPG 第二奇兵隊相木又兵衛(京都にて).JPG

  第二奇兵隊半隊司令:相木又兵衛、子孫の倉光孝之さん所有 ※中央が相木又兵衛

 

⑤鳥羽伏見の戦いで掲げられた長州藩幟旗と薩摩藩幟旗

  向山文庫外観縦長.jpg 鳥羽伏見の戦い長州藩幟旗.JPG 鳥羽伏見の戦い薩摩藩幟旗.JPG

  第二奇兵隊軍監:難波覃庵の子孫、山口千鶴さん所有 ※向山文庫内に保管されていたもの

 

⑥相木又兵衛が記した報知書

  相木又兵衛報知書.jpg 左:戊辰に至る戦中日記 右:大島郡戦争日記

  ※伊藤公記念館に所蔵 内容は未解読

2026-03-14 22:44:00

第二奇兵隊ドライブツアー 令和8年2月1日(日) 参加者8名

向山文庫→石城山登山口→秋良家歴史史料庫→阿月克己堂→赤根武人屋敷跡→上関四階楼

画像 ケーブルカー、テキストの画像のようです 記念碑、テキストの画像のようです

 

画像 フルート、クラリネットの画像のようです 本、テキストのイラストのようです

今回目玉は秋良家歴史史料庫の特別公開

(第二奇兵隊士が多く学んだ阿月克己堂の学務秋良敦之助、子孫の秋良克温さん御案内)

 

画像 記念碑、テキストの画像のようです 地図、青写真・設計図、間取り図、テキストの画像のようです

第二奇兵隊書記の小方謙九郎が明治12年に建てた四階楼は上関町歴史民俗資料館と

なっており、館長さんと上関の維新史について情報交換しました

2026-03-10 22:10:00

第二奇兵隊サミット 令和7年8月14日(木) 光市民ホール 参加者75名

画像 写真の説明はありません。 写真の説明はありません。 

 【動画配信】

 ・紙芝居「立石孫一郎」 https://www.youtube.com/watch?v=QLm5NfuHkoU

 ・一人芝居風 第二奇兵隊通史  https://www.youtube.com/watch?v=4MmTGFHmYs0

 

R7第二奇兵隊サミット当日パンフレット_3.jpg R7第二奇兵隊サミット当日パンフデスク_2.jpg   写真の説明はありません。  R7第二奇兵隊サミット当日パンフレット_4.jpg

 

【子孫5名によるディスカッション】  司会:光田伸幸(周防大島観光ボランティアガイドの会) 

※以下は子孫5名の発言を要約

 

1.山口千鶴さん(第二奇兵隊参謀:難波覃庵の子孫)

 戦国武将清水宗治の弟難波伝兵衛の子孫。横浜市在住だが「向山文庫」の保存活動で毎年光市へ滞在している。毛利家重臣清水家の筆頭家老を代々難波家が務めた。難波覃庵(なんばたんあん)自身も強い忠義心を持っていた。「偏屈じじい」と見られることもあったが、それは全て主家である清水家を立てるため。

 清水家主君の清水親知(しみずちかとも 清太郎とも)は幕府と戦う心意気をもって、難波覃庵に命じ人を屋敷内に集め訓練した。屋敷内の文庫が「向山文庫」の始まり。第一次長州征伐の責任を負って清水親知は自刃したが、その遺志を継ぎ先代当主の清水親春(しみずちかはる 美作とも)が第二奇兵隊軍監に就任、難波覃庵は第二奇兵隊の参謀となった。

 明治16年に難波覃庵が私財を投じて建設した二階建ての「向山文庫」 この「向山」は清水親知の戒名の一部から来ている。現代でも近隣小学校に向山図書室があることを知った。今も現存し第二奇兵隊の象徴である「向山文庫」や、清水家が祀られている「正義霊社」を残していきたい。ぜひ立ち寄ってみてください。

 

2.大橋弘枝さん(第二奇兵隊応接方:立石孫一郎の子孫)

 第二奇兵隊の応接方と銃隊副隊長を努めた立石孫一郎(たていしまごいちろう) 本名は倉敷西大橋屋の大橋敬之助(おおはしけいのすけ)が高祖父にあたる。司馬遼太郎や早乙女貢の小説で描かれる孫一郎の姿は、雑な扱いという感じを持っている。自分も勉強中であるが、今回の第二奇兵隊サミットで知り得たことも多い。孫一郎は第二奇兵隊内の身分差別や不満に付き合い、室積の大黒屋で憂さ晴らしを受け止めながら、百余人の仲間を連れて出たのではないか。若い人たちの熱い想いを受け止め歴史を変えていこうという熱意を感じていたと思っている。

 昭和10年頃、島田川千歳橋の袂に地元青年団が石碑を立ててくださった。150年後の現在でも周辺二軒屋自治会の方が当番で守って頂いている事に、本当に今感動している。

 

3.石津宏さん(第二奇兵隊軍医:石津文齋の子孫)

 地元の勘場医から第二奇兵隊軍医に招聘された石津文齋(いしづぶんさい)が曾祖父。この時わずか21歳であり乗馬が得意だった。第二奇兵隊は「青年たちの軍団」であった。身分を問わず、武、士、商人、農民、僧侶といった多様な階層の若者たちが、日本の未来を憂う純粋な情熱で結集した。

 この革命的な活動は、室積の豪商たちによる絶大な財政支援しには成り立たない。廻船問屋を営んでいた今津屋や松岡家(後の外務大臣・松岡洋右の生家)などが、多額の資金や物資を提供したおかげで、第二奇兵隊は最新式のミニエー銃などを揃え、強力な戦闘力を保持することができた。

 

4.倉光孝之さん(第二奇兵隊士:相木又兵衛の子孫)

 第二奇兵隊の相木鷹之助とその弟で養子となった相木又兵衛(おおぎまたべえ)の子孫。祖母が又兵衛の三女にあたる。相木又兵衛の写真は傍系である倉光家に伝わっており、関東の相木本家からもしっかり代弁して欲しいと言われた。相木鷹之助は千歳橋の戦いで指を切られたと司馬遼太郎の小説や光市の歴史書物に記されているが、鷹之助と暮らした祖母から指はあったと聞いている。

 自分の出身地である光市立野の宮河内地区は、清水家の領地であり多くの家臣団が暮らす豊かな歴史を持つ地域であった。しかし地域の中心であった立野小学校が昭和40年に閉校し、さらに近年の学校統廃合の中で周防小学校も統合が予定されており、地域が急速に風化していくことへの強い危機感を感じる。向山文庫は単なる史跡ではなく、地域の記憶として大切にし、次の世代に手渡していく活動が大切である。

 

5.秋良克温さん(阿月克己堂学務:秋良敦之助の子孫)

 長州藩重臣浦家の家老秋良敦之助(あきらあつのすけ)の子孫。敦之助は海防僧月性の清狂草堂に学ぶ。浦賀に来航した黒船を目の当たりにし、これからの時代は海軍力が国の命運を左右すると痛感していた。浦家が開いた学塾阿月克己堂の学務を務めて若者を育て、そこから多くの若者が第二奇兵隊に入隊し戦った。戦後80年という現代日本の視点から幕末の歴史を振り返り、第二奇兵隊のような存在が、外国の脅威から国を守るための「防衛」という意識を持っていたことに注目すべき。

R7第二奇兵隊サミット当日パンフデスク_3.jpg R7第二奇兵隊サミット当日パンフデスク_4.jpg R7第二奇兵隊サミット当日パンフデスク_5.jpg R7第二奇兵隊サミット当日パンフデスク_6.jpg R7第二奇兵隊サミット当日パンフデスク_7.jpg

 

【まとめ 向山紅葉隊代表:小林孝二】

 光市と周防大島町が連携を強化し、史料の収集・整理を進め、資料集の作成、さらには漫画化や映像化といった、より多くの人々に歴史を届けるための多様な取り組みを進めていきたい。叶うことなら大河ドラマ化を目指したい。

  小林孝二代表挨拶.jpg 画像 

 

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紙のパンフレットが若干余っています 御入用の方はこちらから(送料込1000円)

https://kaishokan.shop-pro.jp/?pid=190894481

 

 

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