海商館からのお知らせ
第二奇兵隊 京都散歩 全25話はコチラ
令和8年7~9月のフェイスブック掲載記事を再編集しリンク記載
第二奇兵隊の行軍経路を笹井自身が歩き、写真・絵巻物・史料で御案内
歴史に埋もれた長州諸隊「第二奇兵隊」の足跡を、隊士と同じ目線で御覧下さい
(なお取材・撮影は数年間に渡っています)
慶応3年10月徳川慶喜公は体制奉還するも情勢は安定せず。
長州藩は京都出兵を決め、11月25日に第二奇兵隊は上関港を出港。
西宮に駐屯の後、津藤堂藩が守る山崎関門を突破し入京した。
①粟生光明寺 布陣(慶応3年12月8日)
②京都御所 参内(12月10日)
③祇園 記念撮影(12月18日)
④東福寺 隊名改称(12月20日)
⑤専経寺・玄忠寺 巡邏(12月21日)
⑥伏見御堂 詰問(慶応4年1月2日)
⑦新町通り 第七連隊(1月3日)
⑫毛利橋筋 朝霧(1月4日)
⑭伏見街道 急行(1月5日)
⑱木津川 渡河(1月6日)
22樟葉台場 巡覧(1月7日)
23粟生光明寺 建言(1月8日)
24防長殉難者之墓 建立(明治33年)
25京都散歩 余話(令和8年7月)
慶応4年1月9日大坂城炎上以降の話は、またの機会に
幕末長州藩死傷者 全⑩話はコチラ
令和8年6~7月にフェイスブックに掲載した死傷者のタイトルとリンクを掲載します
長州藩諸隊の志士で戦闘で死亡した方をピックアップしてます
① 奇兵隊斥候 世木騎六(元治2年1月10日 大田絵堂戦)
② 奇兵隊小隊司令 藤村太郞(元治2年1月7日 大田絵堂戦)
奇兵隊半隊司令 藤村英二郎(慶応4年1月5日 千両松戦)
③ 第二奇兵隊 片山金治(慶応4年1月4日 高瀬川戦)
④ 整武隊参謀 田村甚之允(慶応4年1月5日 鳥羽戦)
⑤ 振武隊中隊指令 石川厚狭介(慶応4年1月5日 千両松戦)
⑥ 第二奇兵隊半隊司令 尾川猪三郎(慶応4年1月4日 高瀬川戦)
⑦ 第二奇兵隊小隊長 国行雛次郎(慶応2年6月14日 周防大島戦)
⑧ 奇兵隊陣場奉行 天宮慎太郎(元治2年1月7日 大田絵堂戦)
⑨ 第二奇兵隊清水美作臣 三浦龍介(慶応4年1月3日 伏見奉行所戦)
奇兵隊半隊司令 藤村英二郞(慶応4年1月5日 千両松戦)
鳥羽伏見戦小話 全⑳話はコチラ
令和8年5~6月にフェイスブックに掲載した鳥羽伏見の戦いに関する小話
タイトルとリンクを掲載します
衝撃 新撰組VS第二奇兵隊(資料集)を発行
令和8年に入って、鳥羽伏見の戦いにおける両隊名と戦況を記載した古書籍を発掘「郷土戦史(S3京都連隊區将校団)」「鳥羽伏見戦七十年記念(S12京都防長会)」
これに新撰組永倉新八の「新選組顛末記」、第二奇兵隊林半七の「戊辰戦記絵巻物」「維新戦役実歴団」記述を落とし込み、会津・薩摩・土佐・淀・津藩の動向も描写
A4サイズ、カラー16頁 1200円(送料込 税込) ※直売の場合は1000円
ネットからのお申し込みは以下リンクより
https://kaishokan.shop-pro.jp/?pid=191715395
衝撃 新撰組VS第二奇兵隊:サンプル頁
衝撃 新撰組VS第二奇兵隊:目次
第1話 伏見御堂の邂逅
第2話 伏見奉行所の戦い
第3話 高瀬川の濃霧
第4話 激突 千両松
第5話 淀城の門開かず
第6話 山崎関門橋本関門
第7話 石清水八幡宮の御加護
第8話 目指すは大阪城
衝撃 新選組vs第二奇兵隊 余話
付録 年表・古書籍・古地図・参考資料
第二奇兵隊VS新撰組 両者戦闘が記述された古書籍発掘
永倉新八の新撰組顛末記(T2)や林半七の維新戦役実歴談(T6)により両者交戦したと推察し第二奇兵隊側視点での調査や情報発信を令和5年頃から続けてきた。令和8年にようやく両隊名と戦況が記述され直接対決が確認できる史料を発掘した。
それは帝国陸軍の京都連隊區将校団が昭和3年に発行した「郷土戦史」である。全209頁の中に南北朝や比叡山焼討など京都周辺の戦いが纏められ、鳥羽伏見の戦いも67頁にわたり記述、小項目として「幕府新撰組の活動」が・・・
以下「郷土戦史」の目次に沿って解説していく。
「郷土戦史」表紙・目次・奥付(昭和3年11月京都連隊區将校団発行)
①伏見方面 戦闘開始前の状況
長州藩は慶応3年12月10日に京都に至る。12月11日に続々と入洛する。林友幸(林半七:第二奇兵隊長)兵力125名は12月21日、伏見巡邏隊として泉経寺・玄忠寺に駐屯する。
12月の大晦日、幕府は薩討表調整のため重臣を集め会議し、軍勢の概要を策立する。新撰組150名は伏見占領隊に属している。
②慶応4年1月3日 伏見方面の戦況
薩摩藩の伏見守備隊800名は御香宮に配置される。林友幸(林半七)は薩摩藩と連携し、新町・銀座・京町の街衝を警戒する。鳥羽方面から砲撃音が轟き、開戦となる。
③幕府新撰組の活動
副長土方歳三が指揮し京町二丁目付近に進出、薩摩藩兵と衝突し白兵戦に突入。
小銃の一斉射撃を浴びるも屈せず奮闘する。
(原文ママ)長藩軍監林友幸部下を指揮し、茲に大手筋付近に両隊の小銃戦と白兵戦が交々起る。
(笹井意訳)長州藩第二奇兵隊軍監の林半七は部下を指揮し、ここに大手筋付近で第二奇兵隊と新撰組両隊の小銃戦と白兵戦が交互に起こる。
④会津藩白井大砲隊の行動
最初は御香宮付近に進出し長州藩林隊と戦闘せしも、敵銃火により前進できず。
止むなく左翼に連絡し風呂屋筋と土橋に進出するも、土佐藩守備し通過拒まれる。
更に堀川を渡り北進、堺町の薩摩藩倉屋敷を焼く。付近を捜索した後に退却する。
会津藩一部と新撰組一部は夜に入るも奉行所付近で戦闘せしも、夜半には後退。
⑤1月5日 千両松付近戦闘
長州藩振武隊石川正臣(厚狭介)が薩摩藩と共に宇治川堤を前進する。
会津藩佐川隊は堤防下の藪葦に潜伏し側面より一斉射撃(攻撃) 石川隊長戦死。
山田顕義総督は第二次偵察を命ずる。指揮官は三浦梧楼(奇兵隊隊長)
長州藩第二奇兵隊と松江藩(因州藩)兵砲2門が急行する。
(原文ママ)此地堤防上にして北は即ち横大路沼、南側は宇治川にして完く全兵を展開する能はず堤防両側にも兵を並べ互に銃、砲戦を行ふ。
(笹井意訳)この街道は堤防上なので、北側は横大路沼、南側は宇治川であり全兵力を展開することはできない。堤防の土手両側に兵を並べ、銃撃と砲戦を行う。
東軍(幕府側軍)は後退する。会津藩は淀城門に向かうも入城を抗まれる。
敵の一部が宇治川と木津川を渡河するとの報告を聞き、八幡(橋本)に退却する。
⑥1月6日 橋本(八幡)戦闘
(橋が落とされており)右側は淀藩兵と薩長軍主力が、左側は薩長土藩の連合が渡河する。
会津兵が橋本北端で頑強に抵抗するが、対岸の津藤堂藩が砲4門で砲撃。
東軍(幕府側軍)は支えきれず後退。追撃隊は樟葉から枚方へ向かう。
※第二奇兵隊VS新撰組 ←筆者による検証
①伏見奉行所の戦い:郷土戦史にそれぞれの名称と戦況が明記
この伏見奉行所の戦いには長州藩から第二奇兵隊125名が参加。
本書項目「幕府新撰組の活動」中には「長藩軍監林友幸部下を指揮し、茲に大手筋付近に両隊の小銃戦と白兵戦が交々起こる。」と明記。
永倉新八の新撰組顛末記「薩軍の陣を目掛けて突貫、薩摩隼人は退却する、長州兵が大砲を向ける、長兵が火をかける」との記載内容が符号する。
②淀千両松の戦い:土手両側に兵を並べ竹藪から銃撃できる隊は長州藩第二奇兵隊のみ 島田魁日記に銃撃の記載あり
本書本文によれば、新政府側の先鋒は長州藩振武隊と薩摩兵。振武隊は混乱退却し、薩摩兵は砲撃中。第二次偵察隊として奇兵隊の三浦梧楼指揮官のもと長州藩第二奇兵隊と因州藩大砲隊が出るが、奇兵隊は死傷者多数、因州藩の大砲は故障する。本書地図には「第二奇兵隊 前方銃砲撃を聞き急行す」と明記されている。
維新戦役実歴団(T4)で林半七は「幕兵と薩兵が戦っているので横の方から撃ち幕兵が崩れた」と口述。
さらに新撰組の島田魁日記には「下鳥羽ニテ戦フ。敵敗シテ一里斗リ退ク。我軍追撃ス。然ルニ右左ノ竹薮ヨリ烈布銃ヲ放ツ。」とあり、土手下の竹藪に散開していた部隊から銃撃されたことを記している。
堤防の土手両側に展開し竹藪より新撰組を銃撃できる部隊は、長州藩第二奇兵隊だけである。本書にも維新戦役実歴談にも「新撰組」の名前こそないが、この地で井上源三郎を始め多くの新撰組隊士が倒れた。明治40年には戊辰之役東軍戦死者之碑が建立されており、第二奇兵隊と幕兵(新撰組)との交戦あったと認識できる。
③橋本・石清水八幡宮の戦い
橋本宿付近の戦況は本書に記載されているが、石清水八幡宮は記載なし。
石清水八幡宮ある男山に第二奇兵隊が登り、新撰組の永倉新八と斉藤一も登ったことは、それぞれが語っている。
永倉新八は新撰組顛末記に「前後の連絡を絶たれ戦いながら走って大阪へ」浪士文久報告記事で「敵に前後を取り巻かれ必死の戦い」と語っており、前後のうち前方部分(山頂の神社部分)が第二奇兵隊と想定される。
























