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2026-10-08 10:00:00
第二奇兵隊 京都散歩 全25話

第二奇兵隊 京都散歩 全25話はコチラ

令和8年7~9月のフェイスブック掲載記事を再編集しリンク記載

第二奇兵隊の行軍経路を笹井自身が歩き、写真・絵巻物・史料で御案内

歴史に埋もれた長州諸隊「第二奇兵隊」の足跡を、隊士と同じ目線で御覧下さい

(なお取材・撮影は数年間に渡っています)

 

慶応3年10月徳川慶喜公は体制奉還するも情勢は安定せず。

長州藩は京都出兵を決め、11月25日に第二奇兵隊は上関港を出港。

西宮に駐屯の後、津藤堂藩が守る山崎関門を突破し入京した。

①粟生光明寺 布陣(慶応3年12月8日)

②京都御所 参内(12月10日)

③祇園 記念撮影(12月18日)

④東福寺 隊名改称(12月20日)

⑤専経寺・玄忠寺 巡邏(12月21日)

⑥伏見御堂 詰問(慶応4年1月2日)

⑦新町通り 第七連隊(1月3日)

⑧京町通り 新撰組視点

⑨京町通り 第二奇兵隊視点

⑩堀川対岸 会津藩大砲隊

⑪伏見奉行所 炎上

⑫毛利橋筋 朝霧(1月4日)

⑬高瀬川堤 絶体絶命

⑭伏見街道 急行(1月5日)

⑮淀千両松 散兵

⑯淀城下 錦旗

⑰淀城門 開門

⑱木津川 渡河(1月6日)

⑲石清水八幡宮 お祓い

⑳男山山中 前後

21橋本宿 砲撃

22樟葉台場 巡覧(1月7日)

23粟生光明寺 建言(1月8日)

24防長殉難者之墓 建立(明治33年)

25京都散歩 余話(令和8年7月) 

玄忠寺.jpg 淀千両松北側より.JPG 橋本宿通り.jpg 

 ⑤玄忠寺   ⑮伏見街道    21橋本宿

慶応4年1月9日大坂城炎上以降の話は、またの機会に

2026-07-11 20:31:00
 幕末長州藩死傷者 全⑩話はコチラ

幕末長州藩死傷者 全⑩話はコチラ

令和8年6~7月にフェイスブックに掲載した死傷者のタイトルとリンクを掲載します

長州藩諸隊の志士で戦闘で死亡した方をピックアップしてます

① 奇兵隊斥候 世木騎六(元治2年1月10日 大田絵堂戦)

② 奇兵隊小隊司令 藤村太郞(元治2年1月7日 大田絵堂戦)

  奇兵隊半隊司令 藤村英二郎(慶応4年1月5日 千両松戦)

③ 第二奇兵隊 片山金治(慶応4年1月4日 高瀬川戦)

④ 整武隊参謀 田村甚之允(慶応4年1月5日 鳥羽戦)

⑤ 振武隊中隊指令 石川厚狭介(慶応4年1月5日 千両松戦)

⑥ 第二奇兵隊半隊司令 尾川猪三郎(慶応4年1月4日 高瀬川戦)

⑦ 第二奇兵隊小隊長 国行雛次郎(慶応2年6月14日 周防大島戦)

⑧ 奇兵隊陣場奉行 天宮慎太郎(元治2年1月7日 大田絵堂戦)

⑨ 第二奇兵隊清水美作臣 三浦龍介(慶応4年1月3日 伏見奉行所戦)

  遊撃隊参謀 後藤深蔵(慶応4年1月3日伏見奉行所戦)

  奇兵隊半隊司令 藤村英二郞(慶応4年1月5日 千両松戦)

⑩ 記事掲載の動機と記事予告

2026-05-07 11:05:00

衝撃 新撰組VS第二奇兵隊(資料集)を発行

令和8年に入って、鳥羽伏見の戦いにおける両隊名と戦況を記載した古書籍を発掘「郷土戦史(S3京都連隊區将校団)」「鳥羽伏見戦七十年記念(S12京都防長会)」

これに新撰組永倉新八の「新選組顛末記」、第二奇兵隊林半七の「戊辰戦記絵巻物」「維新戦役実歴団」記述を落とし込み、会津・薩摩・土佐・淀・津藩の動向も描写

A4サイズ、カラー16頁 1200円(送料込 税込) ※直売の場合は1000円

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 衝撃 新撰組VS第二奇兵隊:サンプル頁

衝撃新撰組VS第二奇兵隊JPEG用_1.jpg 衝撃新撰組VS第二奇兵隊JPEG用_2.jpg 衝撃新撰組VS第二奇兵隊JEG用_1.jpg

 

衝撃新撰組VS第二奇兵隊JPEG用_3.jpg 衝撃新撰組VS第二奇兵隊JEG用_2.jpg 衝撃新撰組VS第二奇兵隊JEG用_3.jpg

 

衝撃 新撰組VS第二奇兵隊:目次

第1話 伏見御堂の邂逅

第2話 伏見奉行所の戦い

第3話 高瀬川の濃霧

第4話 激突 千両松

第5話 淀城の門開かず

第6話 山崎関門橋本関門

第7話 石清水八幡宮の御加護

第8話 目指すは大阪城

衝撃 新選組vs第二奇兵隊 余話

付録 年表・古書籍・古地図・参考資料

2026-04-11 23:35:00

第二奇兵隊VS新撰組 両者戦闘が記述された古書籍発掘

永倉新八の新撰組顛末記(T2)や林半七の維新戦役実歴談(T6)により両者交戦したと推察し

第二奇兵隊側視点での調査や情報発信を令和5年頃から続けてきた。

ようやく両隊名と戦況が記述され直接対決が確認できる史料を発掘した。

それは帝国陸軍の京都連隊區将校団が昭和3年に発行した「郷土戦史」である。

全209頁の中に南北朝や比叡山焼討など京都周辺の戦いが纏められ、

鳥羽伏見の戦いも67頁にわたり記述、小項目として「幕府新撰組の活動」が・・・

以下「郷土戦史」の目次に沿って解説していく。 ※難字難文は現代語に要約 ( )は筆者補足

 

「郷土戦史」表紙・目次・奥付(昭和3年11月京都連隊區将校団発行)

 郷土戦史S4表紙と奥付.jpg  郷土戦史S4目次②.jpg 郷土戦史S4目次①.jpg 

①伏見方面 戦闘開始前の状況

 長州藩は慶応3年12月10日に京都に至る。12月11日に続々と入洛する。

 林友幸(林半七:第二奇兵隊長)125名は伏見巡邏隊として泉経寺・玄忠寺に駐屯する。

 12月の大晦日、幕府は薩討表調整のため重臣を集め会議し、軍勢の概要を策立する。

 近藤勇と新撰組150名は伏見占領隊に属している。

   郷土戦史S4城南付近官軍配備要図.jpg 郷土戦記P119-120赤線.jpg 郷土戦史S4伏見占領隊.jpg 

 

②慶応4年1月3日 伏見方面の戦況

 薩摩藩の伏見守備隊800名は御香宮に配置される。

 林友幸(林半七)は薩摩藩と連携し、新町・銀座・京町の街衝を警戒する。

 鳥羽方面から砲撃音が轟き、開戦となる。

郷土戦史S4御香宮表門写真.jpg 郷土戦史S4両軍伏見市街地戦概況要図.jpg 郷土戦史S4伏見方面の戦況.jpg

 

③幕府新撰組の活動

 副長土方歳三が指揮し京町二丁目付近に進出、薩摩藩兵と衝突し白兵戦に突入。

 小銃の一斉射撃を浴びるも屈せず奮闘する。

 長州藩林友幸(林半七)は部下を指揮し、大手筋付近で両隊の小銃戦と白兵戦が交々に起きる。

 

④会津藩白井大砲隊の行動

 最初は御香宮付近に進出し長州藩林隊と戦闘せしも、敵銃火により前進できず。

 止むなく左翼に連絡し風呂屋筋と土橋に進出するも、土佐藩守備し通過拒まれる。

 更に堀川を渡り北進、堺町の薩摩藩倉屋敷を焼く。付近を捜索した後に退却する。

 会津藩一部と新撰組一部は夜に入るも奉行所付近で戦闘せしも、夜半には後退。

 

⑤1月5日 千両松付近戦闘

 長州藩振武隊石川正臣(厚狭介)が薩摩藩と共に宇治川堤を前進する。

 会津藩佐川隊は堤防下の藪葦に潜伏し側面より一斉射撃(攻撃) 石川隊長戦死。

 山田顕義総督は第二次偵察を命ずる。指揮官は三浦梧楼(奇兵隊隊長)

 長州藩第二奇兵隊と松江藩(因州藩)兵砲2門が急行する。

 東軍(幕府側軍)は後退する。会津藩は淀城門に向かうも入城を抗まれる。

 敵の一部が宇治川と木津川を渡河するとの報告を聞き、八幡(橋本)に退却する。

 郷土戦史S4淀北側地域両軍戦闘経過図.jpg  郷土戦史S4千両松付近写真.jpg 郷土戦史S4宇治川橋写真.jpg

 

⑥1月6日 橋本(八幡)戦闘

 (橋が落とされており)右側は淀藩兵と薩長軍主力が、左側は薩長土藩の連合が渡河する。

 会津兵が橋本北端で頑強に抵抗するが、対岸の津藤堂藩が砲4門で砲撃。

 東軍(幕府側軍)は支えきれず後退。追撃隊は樟葉から枚方へ向かう。

 

 

※第二奇兵隊VS新撰組 ←筆者による検証

①伏見奉行所の戦い

  この伏見奉行所の戦いには長州藩から第二奇兵隊125名が参加。

  本書には「新撰組と第二奇兵隊の間で小銃戦と白兵戦が交互に起きた」と明記。

  永倉新八の新撰組顛末記「薩軍の陣を目掛けて突貫、薩摩隼人は退却する、

  長州兵が大砲を向ける、長兵が火をかける」との記載内容が符号する。

②淀千両松の戦い

  本書地図に「第二奇兵隊 前方銃砲撃を聞き急行す」と明記。

  維新戦役実歴団(T4)で林半七は「幕兵と薩兵が戦っているので横の方から

  撃ち幕兵が崩れた」と記述。

  本書地図にも維新戦役実歴団にも「新撰組」名前ないが、この地で井上源三郎を始め

  多くの新撰組隊士が倒れた。明治40年には戊辰之役東軍戦死者之碑が建立されており、

  第二奇兵隊と幕兵(新撰組)との交戦あったと認識できる。

③橋本・石清水八幡宮の戦い

  橋本宿付近の戦況は本書に記載されているが、石清水八幡宮は記載なし。

  石清水八幡宮ある男山に第二奇兵隊が登り、新撰組の永倉新八と斉藤一も登った

  ことは、それぞれが語っている。

  永倉新八は新撰組顛末記に「前後の連絡を絶たれ戦いながら走って大阪へ」

  浪士文久報告記事で「敵に前後を取り巻かれ必死の戦い」と語っており、

  この前部分(山頂の神社部分)が第二奇兵隊と想定される。

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